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烏　賊　墨　（いかすみ）

その日は店内の雰囲気が随分違っていた。 中に入ると直ぐ若い娘の笑 　　い声やそれをたしなめる女性の声が聞こえてきた。 予想外に賑やかなの 　　である。 　　　某デパートの食品売場の奥にひっそり構える南欧風レストラン。 買い物 　　途中で小腹が空くと 私も時々利用するが、いつも落ち着いたムードが漂っ 　　ていた。 時分時を外すと客の入りはさほどでもなく、稀に店員の視線が気 　　になることもある。私はそれまで、店の中央にセットされた大きな楕円形の 　　テーブルに客が居るのを見たことがなかった。 　　　そのテーブルが珍しく占拠されていたのだ。 五十年配の夫婦らしき二人 　　とおばあちゃんが三人の娘と向かい合って座っている。 娘の一人は成人、 　　二人は中学、高校生くらいに見受けられた。他の席は半分ほど塞がってい 　　る。 私は壁際の小卓につき、注文したボンゴレ（スパゲッティ）を待つ間彼 　　らを眺めていた。 　　　どうやら、一家揃っての買い物帰りに、一休みの積もりが気が変わって、 　　早目の夕食にしてしまおう、となったらしい。最初に頼んだジェラートやジュ 　　ースの類が片付けられ、ミックスサラダやスパゲッティ、ピザの皿が次々と 　　運ばれてくる。 上の娘さんは両親とおばあちゃんにハウスワインを、自分 　　はカンパリソーダを注文した。この時、彼女はウェーターに耳打ちして何事 　　かを頼み込んだ。 　　　「ねえ、ユカ、歯が真っ黒よ。大丈夫？」 　　　食事がたけなわの時、母親が正面に座る長女の口元を見て声をかけた。 　　皆が一斉に彼女の顔を見る。　「御歯黒さんだね」とおばあちゃんは笑い、 　　「お姉ちゃん、やばいよ」と妹たちが目を剥く。 そのくせ、面白がって姉の 　　皿から烏賊墨のスパゲッティをかすめ取って口に運び、自分たちの歯も真 　　っ黒に染めた。 　　　宴も終わり、席を立つ時、妹たちが叫んだ。 　　　「あっ、お姉ちゃんだけ。ずるい！」 　　その直前に化粧室に立った姉の歯は、磨かれてピッカピカに白かった。 　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　（２０００年１１月） 　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　目次へ