一 （プロローグ）
その日は春一番かと思われる強風が吹き、日没時の西の空には夕映えを背
にして富士山がくっきりとしたシルエットを見せていた。私は自宅二階の窓から、
西南西へ百キロ足らずの距離にそびえ立つこの山を眺めながら、今年もそろそ
ろ 「夕映えの富士」 は見納めかも知れないな、と若干感傷的な気分になってい
た。例年、冬の間は晴れていれば大抵見えるこの山影が、三月の声を聞く頃か
ら次第に姿を見せなくなるのである。
自分はこれまで何度この夕景を目にしてきただろうか。遠くへ視線を置きなが
ら思いに耽っているうちに、ふと、この山に一度に登ってみよう、と思い立つ。自
分も、もう若くはない。何かやるなら、体力も気力もあるうちにやった方が楽しい
だろう。富士登山もそんなことの一つかな、と考えたのである。
「オーイ、ちょっと上がってこないか」
私は階段越しに、下に居るカミさんに声をかけた。
「また、富士山？ 珍しくもないのに」
上がってきたカミさんは、いかにもお義理といった様子で私と並び、山影に目を
向ける。
「どうだ。今年の夏にでも登ってみないか」
と、私は提案してみた。すると、
「いいわよ。登りましょ」
彼女はあっさり同意したのである。
前年夏、蓼科高原に遊んだ時、いきなり標高二千五百メートルの蓼科山に登っ
たが、彼女は苦もなくその登山をこなしてしまった。それ以来、登山にはすっかり
自信を持ってしまったらしいのだ。
七月に入ると、私はガイドブックなどをあたり始める。 登山については全くの素
人でもなかったが、富士山については調べたことがなかったのだ。
初めは、真面目に手作りのプランを検討していたが、カミさんが手に入れてきた
旅行会社のパンフレットを見るうち、数社が色々な 登山ツアーが組んでいるのを
知った。
私は色々考えたあげく、河口湖口から入る一泊二日のツアーに申し込んだ。
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