前頁へ　／　次頁へ

富 士 を 登 る　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　3 / 8

一行は先刻の雷雨で既に肝を冷やしている。その場でビニール合羽の上下 　　を購入する者が続出、山小屋は商売大繁盛であった。 　　　三十分近く雨宿りした後、案内人が、 　　　「小降りになったので出発します」 　　　と声をかける。外へ出ると、下界はまだ一面の雲の海。登り行く先が僅かに 　　残る霧雨を透して紫色に霞んで望まれる。一行にはその日最後の、最も辛い 　　登りが待ち構えていた。 　　　午後三時過ぎに七合目の山小屋を出立、標高差が約四百メートルある八合 　　目上の山小屋を目指す。 先刻の通り雨で水を含んだ岩や砂礫は、黒紫色に 　　変色しているものの、表面水など見えず、滑ると言った感じは全く無い。私は、 　　砂礫がしっとりして、かえって歩きやすくなった気さえした。 　　　しかし、七合目で標高は既に二千九百メートル、国内の大方の山より高いの 　　だ。 ただでさえ空気が薄く酸素が摂取しにくい条件に加えて、登りの角度も次 　　第に急になってくる。 一行には、普段は山に登ることの無い連中も多いことか 　　ら、いきおい休息を取る頻度が増加し、登行の速度はいよいよ低下し始めた。 　　それまで三、四十メートルの長さで収まっていた隊列の長さが、やがて六十メ 　　ートル、百メートルとばらけてくる。 先頭の案内人が休息の指示を出し、最後 　　尾が追いつくのを待ってスタートする。 そんな形を繰り返すので、足の遅い組 　　は実質的に休む時間が少ない。ますます遅れが大きくなる訳である。 　　　八合目の山小屋がはっきり見えるようになってからも容易にはたどりつかな 　　い。 標高差であと百メートルくらいに接近してかであろうか、案内人は各自が 　　自由なペースで登るように指示を出し、自らは山小屋に先行した。 彼は七合 　　目を出てから、非力な者の荷物を六、七個預かり、それを体の前後の纏めて 　　背負って、強力の役目も果たしていた。 　　　案内人はその日宿泊を予定している山小屋の従業員である。 年齢は二十 　　代の後半とおぼしき屈強の若者だ。 自分の身体だけ持ち上げるのさえ苦労 　　している人々の荷物を預かる時、「小屋に着いたら、心付けを頂きますが宜し 　　いですか？」と、しっかり念を押していた。 その会話を聞きながら、その心付 　　けとは幾らで、それは本人の取り分になるのだろうかと、私は 他人事ながら 　　気になったものだ。 　　　山小屋が指呼の距離に近づいてからも私たちの登行は難渋した。 標高は 　　既に三千三百、国内全山の山頂を見下ろすほどの高みに来ていたのだ。軽 　　い高山病の症状を示す者も多く、殆ど全員がジグザグの道を三十メートル行 　　っては休み、二十メートル行っては休みし、正しく這うような歩みであった。 　　　午後六時三十分、ようやく八合目上の山小屋にたどり着く。 日没も近い曇 　　り空のもと、山麓は雲の合間に 青灰色に沈み、山中湖が鈍色の水を湛えて 　　いた。 　　　　　　　　　　　　　　前頁へ　　　　　　　　　　　　　次頁へ